緋呂という絵描きにとって一番大事なのは、受け取るあなた

作品制作についての諸処

というと、なんだかカッコつけているみたいなのだが。
それに、私っていうヤツは、だいたいにおいて自分自身のことしか考えず自分自身のことしか発言もしないし。
そんな自己中が歩いているようなヤツが。
「一番大事なのは、受け取るあなた」
なんて言ってても、イマイチ信憑性がないかも知れないのだが。
それでも。

見ていてくれる「あなた」がいてくれるから、私は絵描きでいられるのだ。

   

あなたがいなければ、私は描かない

ハッキリ言う。
インターネットが整備されて、ホームページを使って「どこかの誰か」に向けて見せる、ということができる時代でなかったとしたら。
絵描きに戻ることは、絶対に、なかった。

2010年の初頭あたりから、ぼつぼつと絵描き活動を再開する以前。
15年弱という長期間、絵描きをやめていた。
そして、もう戻ることはないと本気で思っていた。
戻ってくることができ、そのまま継続できているのは、ネットのおかげだ。
Webと、SNSのおかげ。

かまってくれる人達のおかげ。

むろん、最初に私が目を付けられたのは、見えない世界のアレコレだったけれど。
見えないクライアントだけだったら、続けてこられなかった。

なにしろ、私には、自分自身から発露する「描きたいもの」が、ない。
感情を描くとか、主張を描くとか、魂の叫びとか…なんか、そういう、「絵描きの原動力」のようなもの。
それが、私自身には、ないのだ。
自然の美を再現してみたい…などの欲求も、ない。
こういう表現をしたい、という欲求も、根源的には、ない。

題材が向こうからやってきたから。
まず天使が来て。
次にスサノオ様初めとする神々が。
芋蔓式に、龍とかその他の見えない世界の存在が。
なぜか、そのまま私の周囲に居座ってしまったから。
次から次へとテーマも表現技法も持ち込まれて、ついて行くしかなかったから。

そして、迷走含めたその動向をTwitterだのFacebookだのブログだのいう場に、「どこかの誰かに」向けて書き散らすことができたから。

だから、私は今も、絵描きでいられる。

私は、自分一人では、絵描きで居続けることもできない半端者だ。
けれど、今では、「それが私だ」と誇れるくらいになった。
それもこれも、「どこかで見てくれている誰か」…つまり「あなた」のおかげだ。

   

作品が完成するのは、「あなたが見てくれた」その時

描き終わる時は、それとわかる。
「ああ、これで終わった」と、はっきり、わかる。
だから、私の作業は、そこで終了。
ネットにUPする時にわかりやすいよう、完成しました…と書いたりもする。

けれども、その段階では、絵はただ私の手を離れたというだけで。
完成というのは、便宜的な表現でしかない。

絵が本当に完成するのは、第三者の目に触れ、その方の中に何らかの反応が起きた時だ。
私ではない、誰か他の人の中に起きる反応。

厳密に言うと、完成するのは絵ではない。
絵は単なる媒体にすぎない。
私は、媒体を「絵」や「陶器」や「書」などのカタチとして提示する係でしかない。

「あなたの中で沸き起こった反応」こそが。
完成した、作品だ。

だから、私の手を離れただけでは、作品はずっと半人前なのだ。

誰かの目を通り、その人の中にしか完成しないのだ。

なぜって。
その絵は、私の中から出てきたものではないからだ。
私は、道具の一つにすぎない。
この身体が使われて、この世界に出てきた「対象」は、私以外の人の中に留まって初めて、役割を果たす。

観客がいなかったら、何一つ成立しない。

    

この絵はこう見てほしい…という欲求もない。だから自由に見てください

よく、「この絵はどういう意味?」とか、聞かれる。
けれど、それは私が決めることではないので。
あなたが思うように思ってもらえたら、それでいい。

笑顔を描いていても、受け取ったのが悲しみだったり、怒りだったりするかもしれない。
だったら、その「あなたの中で起きた反応」が、正解だ。
それが、あなたにとってのその絵の姿だ。

描く時には、絵のバックストーリーなどは、ある。
どういう流れのシチュエーションなのか、物語を持って出てくることも多い。

けれど、それも、別に、二の次でいいのだ。

気が向いたら、そのバックストーリーに興味を持つ…ていう程度で十分だし。
全くそんなこと思ってもらえなくても、何一つ問題はない。
私に、「どう見るのが正しいのか」とか「どう見て欲しいのか」などは、聞く必要はない。
もう、全く、ない。

あなたが思う通りで、いい。
私が提示するのは、素材の一つでしかない。
その素材から、あなたが思うこと感じること…それが、作品になる。

その「想い」こそが、一番大事。

だから。
私にとって、一番大事なのは、見てくれる「あなた」なのだ。

   

あなたの中で起きた反応を、聞かせてもらえたら何より嬉しい

私に、絵の正しさとか、意図とか、聞く必要はない。
でも、「あなたの中で起きた反応」が、どんなものだったのか…を。
聞かせてもらえたら、それは何よりも嬉しい。
「なんかイヤ」とかでも、いい。
聞かせてもらえれば、私は自分が何を提供したのかを、知ることができるから。

係の役目としては、それは別に「知らなくてもいい」領域ではあるけれど。
そこは、単純に。
提供する者としての、希望だ。