【この記事は、死について触れています。先を読まれる方はご注意ください】
先日、16歳の老犬の天への帰還を見送りました。
あと2週間で17歳になる、という、誕生月でした。
昨年秋頃から目立って衰えてきて、この年明けからは本当に、日に日にというほどの急速さでした。
家族一同、ほどなく別れが来るであろうことを覚悟しながら、過ごしてきました。
それでも、実際にいなくなると、寂しいものです。
正直、私は、「虹の橋」などのメルヘンな考えには親しんでいません。
人様のところのペットちゃん達のことならば、普通に、虹の橋を渡りました…などの表現は抵抗ありませんけれど。
自分のこととしては、今でも、そういう考え方はしていません。
冒頭で、「天への帰還」なんて表現をしましたが。
それも、文章に書くという行為のため…詩的表現のあえての採用、という感覚があります。
自分の頭の中で使っている言葉は、身も蓋もありません。
事実は、事実。
どのように言葉を替えても、そこには、代替えできない二分された一瞬があるだけです。
生き物は、不可逆な瞬間を必ず通ります。
生まれ出た時と、死ぬ時。
16歳11ヶ月半で、その第二の瞬間を通り過ぎていった、うちの犬。
その瞬間、というものが、いかに重大な一瞬であるかを、無言で語ってくれました。
彼は、一旦は息を引き取ったかに見えましたが、ほどなくして息を吹き返しました。
その後数時間がんばって留まりました。
まだ息があるうちから、身体がとても冷たくなっていて。
一旦息を吹き返したら、だんだんといつもの体温が戻ってきました。
夜まで保ってくれれば息子達とも会える…と思いましたけれど。
あと少し、というところで、息子に会う前に、去っていきました。
冷たくなった身体は、もう戻ることはなく。
ふわふわの毛も、こわばってしまい、それももう、戻りません。
こちら側と、あちら側。
普段の生活なら、何事もなく連続していく、流れる時間。
生まれ出た瞬間、それ以前には戻れなくなり。
死の瞬間にも、それ以前には戻れない。
「虹の橋を渡った」といった類いの甘い表現は、決定的な事実を受け入れにくくするのではないか…と、以前から考えていました。
ダイレクトに受け止めることが難しい間は、それでもいい。
それでも、いつかは、事実を事実として受け止めなくてはならない。
そのためには、事実を事実として、事実の通りの言葉で、自分の中に反芻してやることが必要ではないのかな、と、思うのです。
虹の橋を渡りました…とか
天に還りました…とか
そういう表現をしている時は全然泣かなかったんだけど。
ダイレクトに、死んじゃった…と頭の中で言い直すと、泣けてくる。
少なくとも、私自身が、直接的表現を使った時、一番、しっかりと、亡くした事実を感じられました。
正直、この記事、書いたはいいけれど公開したものか迷いました。
最期まで、よい犬でした。
愛情表現や追悼表現を並べた記事が書ければよかったけど。
そういうのは、特に必要に感じなくて。
いやいや、読み手のこと考えたら、そういうことを書いた方が…なんて思わなくはなかったけれど。
そういうのは、なんかちょっと違うし。
それくらいなら、何も書かない方がいい。
彼は誕生日と命日が、両方とも、桜の季節。
涅槃像のある高台に、桜の木を植えることにしました。