「年相応」を他人が押しつけることについて考えた

好きに生きよう道

とあるところで、「年相応」について書かれている文章を読んだ。
「大人になれてない」「年相応の生き方ができないとは、(揶揄として)かわいそう」といった論調のもので。
かわいそう、と言われている方のことは私は存じ上げないけれども。
この論調でいったら、この筆者さんには私も揶揄されるかもな…なんて、思ったもんだ。

今日は、それについて、もうちょっと考えてみようかなと。

大器晩成と言われ続けて

どの占いでも、姓名判断ですらも、私は昔から「大器晩成」と言われている。
そういえば、結婚後の姓名判断ってした記憶がない。
今はどうかな…後で調べてみよう。

とある鑑定士には、具体的に数字を挙げられた。
「あなたは本当に、大器晩成…一番いいのは70くらいから」
だそうな。

当時40半ばだったと思うが。
そこまで生きる前提か~と、思った記憶がある。

現代の70代は、まだまだ若い!ていう人が多い。
私の子どもの頃は、今の私の年齢だともうすでに、けっこうな「おばあちゃん感」が出ている人も多かった覚えがある。

たぶん私も、70になっても、そうひどく老け込んではいないんではないかな…と思う。
若作りしている意識は全然ないけれど、たいていの場合「その年齢には見えない」と言われる。
もっとも、お世辞というか、社交辞令というか…で、事実そうかは、不明ではあるが(笑)

それでも。
今のトシになって、もう昔のようにはいかないな…と実感する出来事を多く体感しているわけで。
年齢はやはり、年齢だ。
70になれば、今よりももっと、動きがスローにならざるをえないだろう。
(まだ生きていたとしたら、だけど)

その頃まで、開かない…って?
それまでは、ずーっと、ひいこら言いながら?

いやあ、なかなかに、笑えない。

そんな視点から「年相応」ていうのを、考えてみると…だ。
「他人が勝手に、何言ってんだよ」
としか、思えない。


人の寿命は個々で違うので、「折り返し」が何歳かというのも様々ではあるのだが。
ざっくり、40代が「折り返し」の年代だと思っていいのではなかろうか。
私は、とうの昔に、そこは過ぎた。
終末へのカウントダウンはすでに始まっている…と、考えている。
何歳まで生きたい…みたいなことは、わりとどうでもいいのだけど。
残り時間は有効に使いたい、とは思う。

そして、私は、思いついたら次から次へと、技法も道具も材料も渡り歩いて乗り換え続けてやってきた。
この道ウン十年…といった人達ならば、一流かそれに近いところまで高めてきているはずの、この年齢になって。
今もまだ、初心者レベルのところから習得を始めていることが、いくつもある。
そして、どれ一つとして、一流かそれに近いところには、高まっていない。

考えてることも、発想も、作るモノも、「中二病」丸出しだし(笑)

それで?
年相応…とは?
いなかる状態のことを、世間では、言うのだろう。

円熟していること?
分別があること?
一定の立場を作っていること?
自分の下についている人達がいること?

なんかもう。
今書いているだけで。

限りなく、「そんなん、どーでもええわい」である。

「年相応」という鋳型

そういうものを求める人も、いるのだろう。
他人が浮かれていると、たしなめたくなる…という人達は実際にいるし。

現実に、50過ぎて礼儀の一つも知らない人に遭遇すると、「おいおい」と私も思う。

けれども。
私もいろんな場面で、人から「おいおい」って見られてるだろうなあ~と、思うわけで。

私の考える礼儀と、他人の考える礼儀は違う。
分別の有無などは、もっと認識が違うだろう。

そして私は、「分別のある大人」でありたい…などは、まるで思っていない。

年相応という鋳型から言動を構成していくというのは、なんとも、窮屈だなとしか思えない。

「芸術家だから許される」なんて、思ってはいないよ。
そうじゃない。

許されなかったら、許されないままでいる…それだけの話だ。

時には「この状況ならば、許される方を選ぶのがよい」と判断すれば、許される方向へ進路を変えることはある。
単に「大人なのに」「いいトシして」「年齢相応に」などの外野の声を気にしないだけだ。
それらの声は、主語も正体も意味も不明な、雑音でしかない。

あるのは「その人なりの責任の取り方」だけ

何歳であっても子どもみたいな人もいるし。
小学生のうちから老成している人もいる。

人は、子どもみたいな大人には「分別を持て」と言い。
大人みたいな子どもには「もっと子どもらしくしなさい」と言う。

老齢になり「子どもに還っていく」人達以外は、「年相応」の鋳型から逃れられない。
というか、それを見逃さない人達が多い…と言うほうがいいのか。

社会そのものの成熟度合いがさほど高いとは思えない現在の日本で。
人にだけ、奇妙に、「年相応」を押しつけるって。
おかしな話だ。
そんな無意味なものを振り回すよりも。
自分は、どういう時、どういう風にして責任を取るかっていうことを決めておく方が、ずっと有意義ではないのかな。

一生のうち一回限りの発動条件であってもかまわない。
何が起きたら、どのように動くか…っていうことだけ決めておけばいいのではないかな。

そのことは、自分だけ知っていれば、いいのではないかな。

そうとは知らない他人様が、訳知り顔でなんだかんだ突っ込んできたとしても。
発動条件が整ってないのなら、へらへらとやり過ごせばいいんではないかな。

もちろん。
「へらへらやり過ごす」ことに対しての突っ込みは、たくさん、あるだろうけど。

その過程も知らず、発動条件も内容も知らない「外野」が、わぁわぁ言っていたって関係ない。

ああ……法律上の年齢に関する線引きというのは、誰もがわきまえなきゃいけないけどね。

   

私にとって「年相応」というのは、そんな程度の概念でしかない。
だから、私にそれを言いたい人がもし、いたとしても。
言ってもムダですよ。

      

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