この記事は、半年以上前に書いていました。
公開せずに、下書きに置いてありました。
少しずつ書いて、下書きを上書きして。
しばらくしてから書き足して、また下書きにして。
なぜすぐに公開しなかったのか…といえば。
迷っていたからです。
今はもう迷っていません。
読み返してみて、これは当時の自分の記録としては残しておきたいと思いました。
なお、「学ぶ」を否定する意味ではない…ということ。
そして私が学びを求めた指導者の方々に問題があったわけでもない…ということ。
冒頭でお断りしておきます。
下の段落からが、当時の文章です。
「文章を使う人々」が、つぶやいた言葉たち
あるプロライターさんが、会話の中でなにげなく
「文章を習いすぎると、個性はなくなりますよね」
と、つぶやいた。
あるコンサルタントの方が、
「小学生でもわかるように…と考えすぎて、奥深い表現が乏しくなってきた」
と、つぶやいた。
あるセラピストの方が
「わかりやすくしようと思うと、ニュアンスの違う文章に変わってしまう」
と、つぶやいた。
ある文筆家が
「難しい漢字を避けるよう指導されるが、日本には同じ音でも違う漢字を使う言葉が多く、かえってわかりにくいものになりやすいとも思う」
と、つぶやいた。
あるセミナー講師が
「世の中に漢字がこんなにあるのに、それがあるから良い表現がある、ということを教えずに平易であることが良いとするのは違う気がする」
と、つぶやいた。
ある技能職の方が
「置き換え語は、代替えにすぎない。
本質を伝えるためには、ズバリの漢字や単語を使う必要がある。
使わせないのではなく、使った上で、それを代替え語で説明するならばこういうこと…とすればよいのに、『漢字や専門用語を減らせ』というだけでいいのか」
と、つぶやいた。
私は、難読漢字を使いたがる傾向があると自覚している。
単語の選び方も独特だったりすることが多い自覚もある。
それらを「減らすように」と様々な機会に指導されてきた。
言い換えも、試みた。
けれど。
やはり、それは、違うのだ。
最後に挙げた技能職の方のつぶやきは、私の思ったことそのまま。
セオリーは確かに正しいが、表現とはそれだけではない
伝える、というのは、相手に届かなくてはならない。
だから、どんな人にでも届くように、というセオリーが生まれる。
一記事一テーマ。
PREP法などの型。
常用漢字以外は使わない。
などなど。
それは、「相手に伝えたい」ならば、心がけるべきことだ。
その通りだ。
だが、本当に伝わっているのか?
伝わったかどうかは、アクセス数やシェア数で測るのだ。
その通りだ。
よいと感じたら、人はそれを広めたくなるものだ。
だから、シェア数が多い=伝わった、ということ。
そのために、かんたんに。
平易に。
漢字は少なく。
難しい言葉は少なく。
私も、それは正しいと思う。
そのやり方に従って、うまくそこにはめこむことができると、実際にアクセスは伸びる。
そして、人が広めてくれる。
一般的で正しい方法を「選ばない」のではない。「選べない」のだ
複数の方から、「自分の正しさを捨てよ」と、教えられた。
それも、正しい。
うまくいく方法があるのだから、それをやれ。
それが自分のやり方と違っても、目的があるならば、自分のやり方を捨てよ。
それは、正しい。
そうだ、正しいのだ。
どれも、これも。
正しい。
正しい道を選べば、そうでない場合よりも成功の確率が上がる。
ああ、その通り。
しかし。
問題は、そんなことじゃ…ない。
「そこまで折ってまで、伝えたいことが自分には、無い」
私は絵描きで。
難解であろうがなかろうが、伝わりにくかろうがどうだろうが、自分の世界観を差し出し、それを受け取ってもらえる人に差し出す。
絵も、立体造形も。
そして、文章も。
同じ「緋呂という絵描きの表現バリエーション」だ。
それを別の鋳型にはめたら。
仮に、それで「伝わりやすくなり」「理解されやすくなった」としても。
それはもう、緋呂という絵描きの差し出すものとは、別モノだ。
私にできることは。
同時に、私がすべきことは。
自分の世界観を忠実に、曲げることなく。
媚びることなく。
日和ることなく。
そのまま、そのまま、できるだけ「生」で。
世界に差し出すこと。
そんなのは間違いだ、って?
それは、誰の基準で?
私は、私の…「絵描きの緋呂」の基準でしか、動けない。