ゆるやかで、自分の気持ちのまま(自分勝手というのとは違う)に、流れに沿って生きていく。
それを実践している人達と出会うことが多くなりました。
私自身も、確かに、我慢しがちな人から見ればそのような人なのかもしれないけれど。
私はまだまだ、ムダに考えを先回りさせたり、想像が先走ることが多いのです。
ああ、なんかムダなところに力入ってるな~。
と、思わせてくれる人達との出会いを繰り返すうちに、自分のムダなところも、見えてくるわけです。
自分の気持ちと、世の大きな流れ。
その二つをうまく沿わせて…そうなるように常に調整をして。
無理に力をかけてねじ曲げるのではなく、自然に。
それこそ、柳の枝や、風にそよぐ草がなびくかのように。
それができるのは、自分の根っこを、しっかりと下ろしているからに他ならない。
流れに逆らって逆らって、滝を遡りきったら龍になる。
私は、そういう生き方は、今は望んでいません。
自分に用意されている場所が、仮に、滝の上にあるのなら。
泳いで逆流するのではなく、他の無理のないルートを探したい。
うまくそこに、飛ぶ船がやってきたなら、乗るかも知れないし。
滝の横に、上に登れる道があれば、そちらを選ぶかも知れない。
ぐるっと回り道をして、上に出るルートを探すことになるのかも知れない。
滝を逆流するための「自力で泳ぐ」以外の方法が見つかれば、それを選ぶかも知れない。
どこに、どういうルートが出現するかは、私には、わからない。
予測もしない。
いつだって、予測とはまるで違うところに扉が開くのが常だから。
「流れのままに流れていくこと」を、一時的な逃避とか努力放棄とかいうことではなく、自分自身の軸をちゃんと持って、本分をしっかりと肚に落として生きていこうと決めている人達。
私が出会ってきたそういう人達は、みなさん、ムダなエネルギーを使いません。
気持ちよく、自分のエネルギーも人のエネルギーも世の中のエネルギーも、無理なくするっと流していっている。
もちろん、彼らには彼らの苦労があり。
人から見えない汗も涙もたくさん、たくさん、あり。
ブレーキとアクセルを操ってもいるし。
時に人と衝突することもあるし、妥協もあるはず。
けれど。
彼らに共通しているのは、「静けさ」だと私は思っていて。
仲間とわいわいやっていても、忙しく動いていても、大きな声を出していても。
気配が、静かなのです。
ムダな水はねを起こさない。
波紋が、静か。
そういう佇まいで生きるって、覚悟がいるな~って。
思います。
私は、いろいろ覚悟してきたつもりなんだけど。
まだまだ、まだまだ。
逆らわない、っていう覚悟は、できてないんだな、って。
思ったねー。
でも、そこで終わっちゃうわけにはいかないし。
自分も、静かなる佇まいで生きていけるように。
もっと、精度高く、自分の根っこをどこに下ろすかを、世の流れに沿いながら見定めていかなきゃ。
そのためには、「ズレに気づいたら、すぐ修正」というのを、日常的にやっていくことが一番だと思う。
ズレを生む要素が混じってきたことに気がつく。
まず、それが第一。
そして、その要素を、どうすれば沿える形に整えるか。
その努力そのものがムダな場合は、自然に排出していくようにする。
排除ではなく、排出。
ここでも、できるだけストレスを生み出さないように。
それは、穏便に済ます…というのとは、違う。
強引さを減らすこと。
無意味にぶつからないこと。
黙って引けばいい時は、すみやかに引くこと。
笑って、受け流すことを、覚えること。
こういうことを踏まえて、今後、作品の販売のしかたなど、改めて、自分仕様に整えていきます。