気が合う人だったはずなのに、いつの頃からか噛み合わなくなり、やがて疎遠になる。
そんなことは、誰でも経験していることだと思います。
ことに、SNSの隆盛によって人との出会いから物理的な距離などが薄れた今。
「SNS疲れ」なんていう言葉も使われるくらい、関わり方で悩んでいる方が多いと思います。
この記事では、そういう「現象」についての私のスタンスや見解を、書いてみます。
※この記事はFacebookタイムラインに投稿したものをベースにしています。
私の場合、特段の理由がない場合がほとんど
相手が個人であれ、団体であれ。
距離を置くことにした「動機」のようなものは、特にこれと言って、ナイ。
そういうことが、私には、かなり多いです。
いや、そんなことはないでしょう?
って、思われるかも知れないのですが。
実際、「え?別に何もないけど?」ということは、起きるのです。
その相手との関係性において、何かしらの「ちょっとなあ…」と感じる点があったとしても。
そのことが直接の原因となって距離を置きたくなる…ということは、本当に、滅多とありません。
「ちょっとなあ…」と感じる点が重なってきて、少々つきあうのがしんどくなってくる…という時は確かにありますが。
逆にそうなった時に「もうイヤ」という結論を出す、ということを「しない」ようにしています。
だいたいそういう時って、妄想が先行していて、勝手にいろいろとマイナス面を膨らませてしまっているので。
その状態で結論を出したとしても、後から「しまった」ってなる確率が高いのです。
私はね。
だから、何かトラブルがあったとしても、「なんだかなあ」と感じることが多くなったとしても。
その渦中では、「もう距離を取ろう」と決めることは、ほとんどありません。
そういう時は、自分の感情を含めて静観し、状態が落ち着いてから改めて、考えます。
その上で「この関係は、一旦距離を取ろう」と決めることはあります。
逆に「なーんだ、思ったほどのことじゃなかったじゃん」となって、また普通に接する…ということも、多々あります。
で。
距離を取る、ということを選ぶ割合のうち、上記のような過程を経ての結果は、おそらく、3割以下だと思います。
カウントしたわけではないけど。
「自分の世界から、相手が<はみ出る>」から疎遠になる
これって、すごく自己チューな表現なのですが。
まあ、そもそも自己中だから、しょうがないんですが。
私は器用な方ではないので、何かに集中していく時、他のことが一挙に「どうでもいい」になってしまいます。
今まで楽しく勉強していた何らかの技法だったり。
楽しく遊んでいた団体や友人達との交流だったり。
すごく興味を持って動向に注目していた人達のことだったり。
そうした様々なコトと、自分自身との関わり方だったり。
そういうもののほとんどが、認識の外にはみ出してしまうのです。
自分が追求しはじめていること、習得しはじめていること、何か軌道に乗りつつあるようなこと。
自分と切っても切れない人…家族とか…に何か降りかかってきてる時とかも。
そうなるともう、視界はピンスポットみたいになって。
そこからはみ出たことは、ナイも同然。
昨日まではしょっちゅうリアクションを送っていた相手とのSNSコミュニケーションも、例外ではありません。
むしろ邪魔になる。
私の世界から、はみ出す。
自分の世界を追求する上で
「今ちょっと面倒くさいな」
「今ちょっと邪魔だな」
「今それどころじゃないんだよな」
な感じが増えた時。
自分のスペースを開けて確保しようとすると。
「遠くに置く」ことが、最適なんです。
そうなったら、次に顧みるのは、ピンスポット状態が落ち着いて、視界が元に戻り始めてから。
で、それが一体、いつ来るのか…不明なわけです。
1時間後かもしれないし。
明日かもしれない。
視界が元に戻ってきた時に……遠くに追いやったものの全てに、再び目が向くわけでも、ありません。
と、なると。
図らずも遠くに追いやってしまったことになったけれど、結局もう視界には戻ってこない…なんてことも。
たくさん、ある。
そして、ある時。
急に
「あ、なんかもう、区切るか」
って思えてきて。
そういう時って、相手に対しての何らかの含み(嫉妬羨望、嫌悪、自己卑下など正負いずれにしても感情)があってのことだと決めたがるように私には見えるんだけど。
逆に言うと、対処できるような状態に自分がなった時は、普通に、距離取る前みたいに接したいのです。
離れる離れない、ていうことを過剰に捉える人とは、深くなれない…とは言える。
そこに囚われない人しか、私の交友関係には残っていかない。
良くも悪くも。
細く長くが理想。
私から離れたとしても、大部分は前述の通り「今手一杯だから」というだけで、感情的な含みはまずありません。
どうやら、含みのために距離を置くということが常態の人もいるのだろうけれど。
そういうのは、そもそも「他人に興味がある」から起きる現象だと思います。
私は、人は好きです。
ただ、他人のことに、さほど興味がないのです。
そして、「だからこそ、わかること」も、けっこう多いのです。