無意識に動かされる。理由がわからない時ほど、強く働くエンジンを感じませんか?

作品制作についての諸処
撮影:中田幸三さん

ふとした時に、今までは気がつかなかった自分の奥の方にある「無意識的に方向付けている想念」を発見することがある。

そんな時。

いろいろな角度からそれを眺めてみて、ふさわしい形容を…言語化を試みる。

すぐに適した表現が見つかればよし。

なかなか、見つからないことも、多々ある。

えてして、そうした、見つからない事柄こそ、自分を気づかぬうちに一方向へ押しやっている原動力だったりする。

先日Facebookにつぶやいていたのも、まさに、そういう「今気づいた」レベルのことだった。

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この時出てきたことは、大きな絵を描きたい、ということについてだった。

なぜ、大きな絵を描きたいと思うのか?

それを、深堀しようとした時。

単に「性に合うから」という以上に、何か理由があるのかもしれない。

それは、なんだろう?

それを考えた。

奥の方からふわっと浮かんできたのは

「しまい込まれたくない」

ということ。

飾ってもらいたい…というのも、その中には含まれているのだが。

それ以上に強い太ゴシックの白抜き文字で浮き上がってきたのは

「通りすがりの人や見るつもりでなく見る人がいる、というのが重要だから、不特定多数の目に晒すことが必要」

という。

この文言だけ見ると、いささか、自意識過剰な感じもするのだけど。

この時感じたのは、「自分の絵を晒す」というのとはちょっと、違っていて。

「それを描いたのが誰なのか、ということは、伝わらなくてもよい」

というもので。

それが浮かんできた時話していたことというのは、ビジネスとして作品を売っていく…ということをテーマにしていて。

だったら、その作者が誰かということもセットで人目に触れていかないと意味ないんじゃないのか…なんて。

自問自答を、したわけだ。

けれど、やっぱり、「別に自分が知られることは二の次三の次…最悪伝わらなくてもいい」というのは、変わらなくて。

じゃあ、一体なんのために、絵だけを晒していくのが必要なのか…と。

その答えは、その時には、見つからなかった。

すぐには適した表現が見つからないとしても、一旦意識に投げられた項目は、空白となって脳内に残る。

その空白を埋めようとして、意識は無意識的に(ややこしいなwww)当てはまる答えを探し続ける。

今回私は、その答えを、自分が過去に書いたブログ記事の中から発見した。

この場合。

過去にすでに書いていることが「答え」なので。

私は、それがいかに、自分にとって重要なことなのかに気づくことなく、通り過ぎようとしていた…ということなんだと思った。

その重要度に無頓着だったことが、今になって、足止めをする原因になった…という。

その、答えが書いてあったという過去記事から引用する。

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この絵は、今はもうない。

絵というのは、儚いものだ。

それでも、人の記憶というデータ格納庫に…それが繋がる、無意識領域に。

カタチは、確かに、刻み込まれる。

絵そのものは消えても、無意識領域には確かに、カタチが刻まれる – 緋呂の異界絵師通信

万年筆を主に扱う文具店入り口のガラスに描いた壁画。

その後、これは洗い落とされて、すでにない。

屋外の、自分が主導していない場に絵を直接描く、というのは、どうしても、そういう運命からは逃れられない。

しかし、日々通りすがる人の記憶には、それはかすかにでも、残っていく。

中には鮮明に残してくれる人もいるかも知れない。

それで何が重要なのか、といったら。

神とか龍とか天使とか仏とか。

そういう、目には見えないけれど人と一緒にこの世界に在るもの。

それを、視覚的に掲示するということは、人の記憶に「存在を刻む」を続けていくことだから。

だから、できれば、個人のお財布や手帳の中にしまい込まれるものよりも。

個人のお部屋の中に格納されるものよりも。

不特定多数の人が出入りする場に、常に掲示されているのが、望ましい。

風雨で次第に風化していったとしても。

時が来たら消され、壊されるものだったとしても。

むしろ、その方が望ましいのかも知れない。

それは、そこに定着させた魂の、お役目満了の時。

この空白を見つけた時。

言葉が、出なくなった。

話をしていた相手の人は、無理に促さずに待ってくれたのだが。

結局、その時は、何も言葉が出ないというのが続いた。

ようやく、「しまい込んでほしくない」ということだけが出てきて。

それさえも、絞り出してやっと出た…という。

人の記憶というデータ格納庫に…それが繋がる、無意識領域に。

カタチは、確かに、刻み込まれる。

これだった。

巨大な大仏を建立したり、極彩色の曼荼羅を描かせたり、石碑に梵字を刻んだり。

そういったことは、結局どれも全て、「記憶にカタチを刻み込む」ためだ。

この過去記事は、ちょうど1年前のもの。

2016年12月6日の記事だ。

なんと。

びっくり。

今日まで、そんな記事を書いたことすら、忘れていた。

意味を見失い始めると、どういうわけか、どこかから、思い出させる動きが来る。

どこで誰がコントロールしてるのか、知らないけど。

そんな理由が根底にあるから。

大きなものを描くのが好きなのだ。

いや…大きいのが性に合っているヤツだから、その理由をもらってくることになったのか。

どっちでもいいけど。

よくわからないけど、どうしてもそうしたい。

そういうことが、あなたにも、ありませんか?

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