自分が人をどのように見ているかは、人には無言のうちに伝わっている
人にどう見てもらうか…ということは、どうやって仕事をしていくかを考える上では重要なこと。
それによって、どのようなことをどのように発信するべきかは大きく変わってくる。
私にとっても、ずっと考えながらやっているテーマだ。
何も考えずに書きたいことを書いているけれども、決してそれだけではない。
言うべきでないことは抑えるし、少々マズいかなということでも差し支えないと判断すれば流すし、そのことで起きる波紋は受け入れると決めての言動でもある。
それによって、現在の私という人間への印象や評価が決まってきている…と、言える。
ただ。
私は、「印象や評価が決まってくる」からといって、あまりにも作為的にそれを左右させようと図ることは、好きではない。
そして、そうしたことは、すすめない。
なぜなら。
舐めた行為になりやすいからだ。
そうなっていることは、肌感覚で伝わるからだ。
読者や読み手はバカじゃない。
「作ってる」
「虚偽演出」
「何か隠してる」
「本音は違う」
そうしたことを、無言のうちに、感じ取る。
「言うべきじゃないことを言わないでおく」ということと、「そもそもの発言を作りこんでしまう」のは全然別の話で。
作りこんだ結果、裏目に出ているケースも多々ある。
往々にして、仕掛けていると思っている側は、どう受け取られているかには気づかないものだ。
作為は、自分よりも上手の相手には丸見えなもの。
バレないとか、感づかれないと思っているのは自分だけなのだ。
ほとんどの人は、そんなことは感じても伝えず、去って行く。
あるいは、生ぬるく見ているだけ。
なにより。
「自分の作為が通用する相手」の方ばかりを見ていると、「自分が置かれている現状」を、超えることはできない。
作為が通じる相手とは、「今の自分が想定できる範囲にいる」のであって。
現状を超えるため、今よりも飛躍するためには、その外側にいる人の目こそが必要なのだ。
特に、自分が届かせたいと願っているのが、今の自分よりもずっと大きな世界に生きる相手であるとしたら。
大きな相手から、自分の作為が見えないと思うほうがどうかしている。
私はそう思う。
もっとも、こんなことは、そもそも作為を働かせるなどいう思考すらないおバカな人間だから思うのかも知れない。
そんなおバカな私は、あまりにも作為を廻らせている人に出会うと
「私に、あなたの何をどう信用してほしいと思うの?」
と、逆に聞きたくなってしまうのだ。
それは、いわゆる
「いろいろと計算して動いている」
というのと、少し話が違う。
そこはきっと、私にしかわかってない微妙なニュアンスなのだろう。
見せ方や見え方、その言動が引き起こすであろう結果…それらを計算した上で緻密に組み立ててやっている、というのとは、少し違うのだ。
方程式のように積み上げて、将来的に狙った結果を創り上げていく…という種類の人も、私は何人か知っている。
作為的であることが裏目に出ている人、というのは、そういうのともまた違う。
ただただ、「ウソくさい」し。
「無理してる感じ」が漂っているし。
本音が見えない。
イメージを向上させるために表現を言い換える…などの話ではなくて。
そうした「努力すべき」範囲を逸脱して、やり過ぎていて。
作為的であればあるほどに、うまくいっていない感じが強まる。
そういう感じの人を観察していると、彼・彼女らは「そもそも人を信じていない」のだなと思う。
同時に「操れる」と思っているんだろうな、と感じる。
その姿勢が、無言のうちに、彼・彼女らの本性を語っている…そんな風に感じてしまう。
全ては、リンクしているのだ。
当人達は、見えていないと思っているかも知れないけれど。
うまくやれている感じは、ただの錯覚。
私は作為を廻らせることができるほど頭もよくないし計画的にもなれないけれど。
人を舐めてかかる…といった姿勢にはならないように注意したい。