遠くに山が見える。
その時、自分の足元の大地と、遠くに見える山は「繋がった大きな地面の上」であることは、理屈でわかる。
山がある方に向かって、走る。
車でも電車でもチャリでも自力でもいい。
すると、山は近づいてくる。
自分が近づいているんだ、ということは、理屈ではわかっている。
やがて、裾野までやってくる。
遠目に見ていた時は端から端まで見えていた山は、密集した無数の樹木が何段にも連なっているように見える。
気がつくと、斜面を登っている。
振り返ると、遠くには町並みや…もしかすると水平線が見えているかも知れない。
以前に自分が立っていた場所が、今は「あの場所」のように見えている。
「あの場所」で見ていた時は、なんとなく、「山」という巨大なものの始まりのところに線が引いてあるような気がしてたけど。
でも、今、こんな坂道を登ってるってことは、「ここはすでに、山」なんだよね?
便宜上、「ここから●●山」という境界線は設定されている。
地図にも、線が書いてある。
だけど、それは理屈であったり、決めゴトとして概念として、存在するだけ。
神も、こんなようなもんですよ。
遠くから見てると、なんだか「神」という特別で特殊なスゴイ存在が、どこかで光輝いて燦然とそびえ立つ存在として、いつか目の当たりにできるかも知れない…なんて。
そんな気がするかも知れない。
けれど。
近づいてみれば。
いつもと同じ自分の、その、ほんのほんのちょっとだけの延長線に、いつの間にか在る。
そして、ある時、「あれ?なんか、神さまって自分と重なってるものなのかな?」
とかね。
まあ、そういうもんっすよ。