秋~冬が好きだ。
なんといっても、空が美しい。
午後になると光が黄金色になり、そこから日没までの短いひととき、世界はこんなに美しいのかと見とれずにはいられない。
この移り変わりは、人という種族がこの世にいてもいなくても、続く。
少しずつ、けれど絶えず変化しながら、続いていく。
以前、こんな記事を書いた。
山はどこから始まるのか?
地図上では決められているけれど、そんなのは後から人が作った概念にすぎない。
神も、そんなようなものだ。
…という、記事。
人もその一部にすぎない。
人は一部…でもなく、人が一部…ではなく、人も一部。
前に、ある飲み会の席で、こんな質問を受けた。
「神の名前を借りるなら、重々気を付けなきゃならないって言われるんだけど、実際、どうなのかな?」
答えは…イエスでもあり、ノーでもある…と、私は思う。
私は、自分のペンネームやヒーラー占い師名などに、神仏や天使の名前をそのまま使っている人達が好きじゃない。
正直、「よくやるよ」と思う。
「そんな恐ろしいこと、よーやるわ」と。
ほとんどの人間にとっては、その行為は「やめとけ」というものだ。
よくもまあ、そこにのっかる「見えない質量」を己が支えられると思えるよな…と。
(名を借りることが無礼だ、失礼だ…という観点での話とはちょいと違うのだ、私の考えは)
でも。
ある一部の人に対しては、真逆なことを、思うことが、ある。
「名乗ればいい。その名前がふさわしいと思うなら」
と。
神の名は、確かに、人が与えたものにすぎない。
ある種の記号でもある。
(向こうから名乗ることはない、という意味において)
けれど、長い長い年月をかけて、その名に与えられた「音」は、その神が備える属性を帯びるようになった。
名を持って「縛る」とも言うように。
組み立てられた「音」は、現象を、「かたちづくる」ものでもある。
あの山は、霊山だ。神がおわす山だ。
その信仰のもとで語られる山の名と、地図に書かれている山の名は、同じ音でも、違う音。
違う音でも、同じ音。
人間は、どんな大きさにでもなれる存在だと私は思っている。
本人が、どんな大きさかと自分を「信じる」か、という、その点に、かかっている。
音を、単に音として「あの神様が好きだから」などのノリで、名乗る…ということは、私はオススメしない。
重ねて言うが、無礼だ失礼だ、という意味から、そう言うのではない。
名乗るなら。
その音に、己を全部賭ける覚悟が必要だと思う。
名乗るということは、「その音により、己をその音の属性のカタチに、縛る」ということだから。
だから、神前で宣誓してくれば使ってもいいとか、能力のある人からご託宣をいただけばOKだとか、そんな次元でも考えていない。
もちろん、礼儀は通したほうがいい。
だから、神前に挨拶に出向くなどの儀式は、やらないよりはやったほうがいい。
言い換えれば、その程度の問題だ…というのが、私の考え方だ。
その名には、長い年月をかけて人が創ってきた想いが、役割が、その質量が、のっている。
それに耐えるであろうと思える人なら。
名乗ればいい、と、答える。
それを支える気概があるならば、名乗ればいい。
その席で、聞かれた時。
「名乗ればいいよ」
と、答えた。
覚悟はいるけどね…でも、もうそんな話するような段階過ぎてるしね。
私は、神仏天使の名は、名乗らない。
一時、義理のある人から、とある菩薩の名をすすめられ、ほんの3ヶ月くらい名乗っていたことがあるけど。
いやあ、あの期間は、実のところ、居心地が悪かった。
神ならまだしも、仏はいかん。(←これは私の慣れ度の問題で、私だけの尺度だと思う)
今まで私が出会ってきた中にも、神仏天使の名を名乗っている人はいた。
でも、「名乗ればいい」なんて答えたのは、今のところ、その時が一回きりだ。
どこからが平地で、どこからが、その名のついた山なのか?
そういうことを、体感的にちゃんと、知っている人。
そうでなければ、名乗ればいいよ…なんて、とても、言えない。
もっとも…お気楽に、チャラく、名を借りている人には、「いっぺん、堕ちてくれば?」という意味を込めて「いいんじゃない?」と、言うかも知れない。
(現実に、堕ちた人も、まあ、いろいろね…いますけどね)
(でも、それもまた、その当人が「かたちづくった」結果です)