一人で静かに想う時間を確保すると、惑わされにくくなる

日々徒然

考えること、決めていくこと…というのは、誰しも、一人で意志決定をしていくものだと思っている。
そういう時に、「外野の声が常に耳に入ってくる」という環境に身を置くというのは、危険なことだ。
それを「自分の内側からの声」だと勘違いしやすくなる。

   

現代はネットは常時接続で当たり前になった。
外出中でもそれは同じ。
私がネットを扱い始めた頃とは、まるで環境が違う。

FacebookやTwitter、InstagramといったSNSが浸透したことで、多くの人が常に、第三者の放つ文字や画像や動画の濁流に泳いでいる。
もちろん、私もその一人。

以前から、時々SNSから意識的に遠ざかる期間を定期的に設けていた。
昨年はその頻度を増やした。

現在。
閲覧時間は、かなり短くなっている。

今までと違うのは、親しくしている人達の投稿すらも読みに行かないということだ。
接続時間を短くしても、その時間は親しい人達の投稿を読みに行くようにしていたのを、今は、やめている。

また、以前なら、閲覧を自主制限していても自分の投稿は気にせずしていた。
考えを整理する、という時に、投稿するのはとてもよい手段だった。
だから、人のを見なくても、自分の書きたいことは随時、書き込みしていた。
今は、それも、ほとんどやっていない。

   

自分も投稿をしない。
人のも見ない。

そうすると、自分の考えを言語化するにあたって、ノートなどに書いたり、メモアプリに打ち込んだり…という手段を使うことになるのだが。

何かの途中であっても、絶えず、誰かの発信を拾っている状態の時は、ヒントや刺激も無数にあった。
その効能は、確かに高い。
思いがけない発想の転換があったり、発見があったりする。

けれど。
ふと、後で考えてみた時…そうした「刺激によって誘発された発想」が、意外に足枷になってきている、ということが、ある。

それらは、やはり、自分由来とは言い難いのだ。
一見楽しそうで、面白そうで、ナイスアイデアのようにも見え。
いいな、そういうのやってみたいな…なんて、思う。

けれど。
よくよく、じっくりと考え直してみると。

いいな、と思えたのは、その要素のほんのほんの一部でしかなくて。
それを厳密に抽出してみれば、やってみたいことというのは、今までもいつも自分からやってきていることの延長線でしかなくて。

確かに、刺激にはなり、飽きずにやるためには、バリエーションはたくさんあっていいのだけれど。

それと引き換えに、深く潜ることや、追求していくことというのは、薄くなりがちだ。

   

あれ?こういうふうに、したかったんだっけ?

そんな風に思うことが、しばしば、あって。
そう感じるに至る原因になっていることには、共通点があって。

それが、「ふと目にしてしまった」自分ではない誰かの発した言葉や画像に誘発されて始まったことなのだ。

  

さすがに、私も、そろそろ「多動傾向」を落ち着かせていかなくてはならない。
自分の持ち時間があとどれくらいなのか、わからない。

それをいつになく感じた時。
人の動向を見すぎている、ということを同時に、感じた。

   

同じ「他人の発信」であっても、本や雑誌記事などは、まだよい。
それらは、自分が見たい時に見たいものを選んで見ることができる。
あの人のあの記事を…あの本のあの章を…といった具合に。
考えたいことの中身や、自分の状況に合わせて選ぶことができる。

ネットに流れてくる雑多なコトバや画像たちは、そうはいかない。
中には、自分自身の思考の流れを分断してしまうようなものを意図せず見てしまうこともある。
思い描いていたアイデアと似た傾向のものを見てしまい、自分の発想に影響を及ぼすこともある。
似たモノを見たからといって、それと同じになるわけではないのだから、気にしなければいい…のは確かにそうだが。
見てしまうということのビフォーアフターは、本来やりたかったことを時にねじ曲げる。

   

私はSNSなどをかなり積極的に使ってきた。
おかげで、物理的制限においては知り合うはずもなかった人達と知り合うことができた。
たくさんの方に、見ていただく機会も得た。

これからも、有意義に積極的に、活用していきたい。

ただ、時に、今のように、あえて遠ざかる期間、というのは設ける方がいいと思う。
常に濁流を泳ぐのは、人の心にはいささか酷だ。
自分は本来何を、どう感じ、どのように動いていきたいのか…というのを考えるには、たとえ普段親しい人達の発信であっても摂取を控える方がいい。

一人の時間がどうしても必要なので、よけいにそう感じるのかも知れない。

   

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