神仏天使に胸借りて

作品制作についての諸処

見えないセカイとの接し方については、思うことが様々ある。

ホントに、どうにも表現しきれない思いが、腐るほどある。

確執の多い親たちを意固地に憎みたがる子ども…みたいなもんだ(そういう程度だという自覚はある)

子がなぜ親を憎みたがるか…といえば。

自分の存在が、必ずそこに回帰すること、その存在がなければ自分もないこと…それをよくよくよくわかっているから…だ。

私には、神様がたは、まさにそういう存在であった。

長らくそうであり、今もまだ、半分くらいはそのまんまだ。

私は、自分にはそういう思いがあるからこそ、描くことができる…と、思っている。

己矛盾を苦に感じる」をやめる

自己矛盾は、なくならない。

統合するべきで、その努力をするべきだ…と今まで多くのアドバイザー(そして、アドバイザー気取り)に言われてきたけど、もはや、その気はない。

ないから、それを苦に感じるのを、やめることにした。

あちらは「永遠に親」で、こちらは「永遠に子」なんだから。

てのひらの上で右往左往する…のを、楽しめばよい。

シリアスに苦に感じるのはやめ、喜劇として苦を楽しめばよい。

一本の糸を持ち合う同士

神々と人間ってのは、相身互いだ。

どちらも、相手が在って初めて存在できる。

片方だけで成立はできない。

神々の存在がなかったら、私はそれを描くことはできないし。

私が描かなければ、私の神々は存在できない。

誰かが、それを見ることによって一時の楽を得る…という奇跡的な出来事も、私がセカイに向かって発しなければ、あり得ない。

だから、これからも胸を借りる

作法がどうとか、理がどうとか。

見えたり聞こえたりわかったりする人達には、イロイロと決めごともあろうかと思う。

私は絵描きなので、いわゆる「ご神事」を執り行う系の方達のようには、その決まりゴトを守る気はない。

根底には、確固たる畏敬と信頼がある。

本当にやっちゃいけないことは、無意識下に刷り込まれていて、そのセンサーは敏感だ。

見えたり聞こえたりしなくても、わかる…ということは、ある。

アメブロには、こういう系統のグチとか怒りとか、いろんな思いを書き散らかしてきた。

拠点を移すと同時に、その段階はもう、脱することに決めた。

水面下では相変わらず反抗的だったり怒ってたりするかと思うけども(笑)

表に、そういう思いを吐き散らすことは、今後はやめる。

胸を借りる者の礼儀として。

(その代わり、そうそう簡単に礼賛もしないだろうけど)

私の主たる神は、天界の風雲児(異端児か?)だ。

だったら描き手もヘンなのは当然(笑)

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