発想とは、どこから湧き出てくるのだろう。
あなたは、考えたことが、ありますか?
発想とは、現実から遊離していてもかまわない自由なものだと思います。
現実的かどうかなどは、ひとまず考えず。
面白そう!
楽しそう!
すごそう!
よさそう!
そんな風に、妄想しながら楽しめばいい。
私は、ずっと、そう思っていました。
そして、その妄想が次の段階に進む時。
つまり、現実にモノとして作ろうとする/人を巻き込んだ計画として精査する/具体的な準備に入る…といった動きが始まる直前に、現実味があるのかどうかを改めて考えればいい。
次の段階に進んでもなお、実際本当に実現できるのかどうかなんて、やってみなければ判断できないってことも多いのです。
目が肥えている…という表現があります。
「よいものを見慣れて、よしあしを見分ける力が増す」という意味ですね。
実際に実行する側ではなくても、実行している人達の事例などをたくさん知っていて、その優れた要素を知識として積み上げてきた結果として、目が肥えている。
そんな人も、たくさんいます。
素晴らしいことです。
私は、そうしたことは下地としてたいへん有利な点であり、発想の源泉に注ぐ素晴らしい要素だと思っています。
よしあしがわかるから、よいものをよいものに掛け合わせることができる。
片方がゼロだったら、片方が100でもかけ算はゼロのままですが。
片方が2なら、かけたら200になる。
だから、目が肥えている人は、そうでない人よりも楽しく面白い発想がわく。
…なんて、無邪気に、考えてました。
けれど、人は意外なものです。
肥えた目が、発想を阻むことも、あるのですね。
そりゃあ、そうですよね。
発想が形作られた瞬間に、よしあしがわかっちゃうんだから。
それが続いたら、「自分には発想力がない」て、思えてきてしまうかもしれない。
知識がある人が、そのために身動きがとれなくなる…というケースは十分に遭遇してきたから。
それと、同じようなことが、目が肥えていることと発想を阻害することの関係にも、起きるのでしょう。
何も知らないビギナーが、あっと驚かせるような発想の元に凄いモノを生み出す。
それは、肥えた目の人が先回りでNGにしてきた「想像上の愚策」を、愚と思いもせずつっ走ることができるためなのかもしれません。
でもね。
私は、目の肥えた人が意気消沈して、できなくなってしまう…というのは、本当にもったいないことだと思います。
目が肥えていても、発想は自由に出せる…という人も、いる。
その分かれ目は、どこにあるのでしょうね。
あなたは、どう思われますか?
私の考えは。
やっぱり、「自己承認」ではないかな、と思います。
肥えた目が「うわ、しょーもな」とNGを突きつけてきた時に、それに怯んでしまうか、否か。
「しょーもないかも知れないけど、いいじゃん」
と思えるためには、「それもあり」と自分を励ますことができるかどうかが、大きく影響すると思います。
その結果、実際にモノに作ってみたり実行してみたら、思っていたよりもよかった…ていうことは枚挙にいとまが無いのです。
発想は、妄想です。
実行してみなければ、実際どうかなんて、誰にもわからないのです。
だから、やってみちゃえばいいのです。
そこで踏みとどまってしまうのは、肥えた目の方に主導権を渡しているから。
主導権を、目から取り返しましょう。
もう一つ考えられるのは、「感情を切り離せるか否か」です。
肥えた目が「うわ、しょーもな」とNGを突きつけてきた時に、沸き上がる恥ずかしさや無力感が勝ってしまう。
でも、感情は感情として置いておくことができれば。
それはそれ、として、動けるのではないかな。
あなたは、どう思われますか?
そして、あなたが「目の肥えた人」だったら?
「うわ、しょーもな」という目の声をスルーして
「いいじゃん、やっちゃえ」って
思えますか?