あらゆるものは、一時も静止することはない。創作と神様事と自分自身の関係性も例外ではない。

日々徒然

先日、2019年の夏越しの大祓を通り過ぎました。
今回は初めての越前での大祓。
毎度、夏越しと年越し、年に二回の大祓の前には、いろんな事が起こります。
次期へ、そこから先へと持ち越すべきでない事が自然に露呈され、解消しておかなくてはならなくなる…とかね。

この夏越しの大祓でも例外なく、そういう流れがおきました。

ただし。
むろんのこと、そこに至るきっかけを作るのは自分です。
何か超自然的力によって、そうさせられた…ということは、滅多にはありません。
災害やもらい事故に遭ってしまったり、犯罪に巻き込まれたり…という、青天の霹靂的な出来事以外、ほとんどのことは自分が原因の種をまいています。

そうしたことに自覚的であるか否か、という違いがあるだけかと思います。

   

大祓を過ぎて、今の私はたいへんに気分よく、清々しく。
自身のやること、やりたいことへブレなく焦点を当てられるようになった感じ。

焦点の範囲が絞られて、圏外にはみ出たことがたくさんあります。
強化された信念と、もう不要でしかなくなった信念との明確な分離もあります。

創作と神様事。
今回の方向習性は、その領域にも、及びました。

そこに及んだからこその、今のこの清々しさでもあります。

   

私にとっての創作は、それ自体が神様事です。

それ以外に、何か特別なことを特別であるかのようにやる必要など、ないです。

私の役割は、「可視化」です。

これは、天使時代から変わっていません。
いつの間にかそこに、いろいろな役どころを付け加えてきてしまったな、という感覚になってきたのが、昨年の秋頃からでした。

   

神様事…っていったって。
特別に何か大げさなことをする必要なんてない。

人は皆、それぞれの役どころに合った形の「神様事」を、日々、しているのです。

私の場合、それが創作である、ということです。
そして、それ以上でも以下でもないです。

明文化されていない何かの起源とか、これから世界がどうなる示唆とか、封じられたなんちゃらとか。
これが本当の○○だ…とか。

なんだか、そんなことにもすっかり興味がなくなりました。

世界が二極化するとか、二分化するとか、されるとか。

どうでもいいです。

そうなるなら、なるんだろうし。
ホグワーツの組み分け帽子みたいな、わかりやすい通過儀礼があればまだしも、ないわけだし。
だったら、それを云々してもしょうがないじゃん…て。

どの神が何を言ってるとかも、必要なら私にもわかる…そしてそれ以外は不要。

  

見えない世界の意向を「自分の後ろ盾」にして、他人に何か言う。
言ってもらうことを求める。

そういうのが、もう、私は、ウンザリなのですよ。

作品というカタチにして、そこを通して、見てくれる人が何かを自ら受け取ってくれる…という機会を設けることが、私の役どころ。

そうでないところでの見えない世界メッセージは、他の方にお任せしますし。
受け取りも、よほどでなければ望みません。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

6月2日に越前から愛知の自宅へ戻り。
その4日後、6日にはふたたび越前へ来ました。
本日は、6月7日。
午後から愛知の自宅へ戻ります。
今回は大型の荷物を持ってくるためだけに来た&週明けには地元でいろいろ予定があるので、一泊だけの滞在。

けれど、玄関前のアジサイは前回よりも色が濃くなっているし。
空き地の草は勢いよく、地面を埋め尽くすように茂り始めているし。
山の緑も、4日前より濃くなっていて。
道中、山が崩れた跡と思われる赤土が露出していたところが、昨日通った時は緑色が覆い始めた部分が目立ってきていて。

人間にとって…ことに、大人になってからの4日間なんて、別段代わり映えなく過ぎるような程度の感覚です。
大して経過していないように思えてる。

けれど。
自然は刻々と変化していっているのです。
一時も、静止してなどいない。

「こんな気分さっぱり、清々しい感じって久しぶりかもしれない」
という感じではじまった2019年下半期。

起きるべくして起きることしか起きてはこない。

それは結局、起こしたことしか起きてこない、ということでもあるわけで。

より、楽しくて充実した時間の中を生きていくっていうことが、何より一番の仕事だってことです。